ブログ

Gakushuin University

夏合宿

9/3~5、サークルの夏合宿に行ってきました。この記事を書いてるのが9/7なので2日後なわけですが、思い出が蘇ってきません。悲しい....

初日は湖をボートで端から端まで渡りました。嘘です。端から10分の1程度まで行って引き返してきました。名前は覚えてませんが、湖広かったです。

2日目、富士急に行きました。色んな怖いアトラクションに乗りました。

3日目、帰りました。

特別つまんなかったというわけではなく、むしろ楽しかったとは思うのですが、エピソードが蘇ってきません。というか、ブログに載せられるエピソードが無いのかなと今書いてて思いました。ごめんなさい。

企画のみなさんは本当にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。

来年は4年生なのでもう行かないと思います。

次はゼミ合宿だぁ。

広告を非表示にする

夏番

25日、やっと夏番が終わりました。番組を考え出した時期から本番まで、カレンダー上ではたった2,3週間なのですが、めちゃくちゃ長かった気がします。書いて印刷、また書いては印刷の繰り返しで、セブンイレブンのコピー機には大変お世話になりました。

今回の番発は自らがやって楽しいと思えました。観客数とか評判とか重要視されがちだと思いますが、もうそんなもんは取っ払って人目を気にせずやりたいことをやれたと思います。嘘です。人目は気にしました。特に、ホールの技師に半ケツを見られるのは本当に嫌でした。とにかく、学アナ全体?として観客数だの評判だのを視野に入れない精神で番発ができたのは凄いなと思います。

何はともあれ、来てくれた人たちと番発を作り上げた部員たちには感謝です。ありがとう。

とりあえず、夏休みがまだ半月あるので、昨日買ったポケットモンスタープラチナをやりたいと思います。また会う日まで。

広告を非表示にする

夏休み

夏休みが始まりました。大学生は人生の夏休みと言われるくらいなので、その中の夏休みはもうそれはそれはそれは暇なのです。テストの都合上、実質7/28から僕は夏休みだったのですが、早速今日までバイト5連勤をして有り余る時間をお金に変えました。

ただ、暇と余裕をかましてられるのものここまでで、ここから先夏番に時間を費やさなければなりません。番組に応募したのは6月終わりくらいで「夏休みがあれば番組制作なんて余裕でしょ笑笑」と意気込み、OPとPDJを応募したのですが、8月頭、今日まで何1つ進行がありません。8/25に本番なので、KTC本大会でしたらもうカウントダウンが始まっている頃です。焦って参りました。また、9月には四大合発もあり、そっちでも番組に関わることになり、もう頭がおかしくなりそうです。

イデアは思い付くのですが、翌日起床してそれらを見返すとあまりにもつまらなくなっていて全てボツになってしまいます。アナウンス研究会って大変ですね。

とにかく今年の夏休みはアナ研に捧げることになると思います。いい思い出になるといいなぁ。あっはっはっはっはっはっ。

広告を非表示にする

『カレー味のウンコかウンコ味のカレー、どっちがいい?』

1.はじめに

『カレー味のウンコかウンコ味のカレー、どっちがいい?』誰もが聞いたことはあるだろう。どちらを選んでもほぼ同量のデメリットを負わなくてはならないのが特徴であって、まさに究極の二択である。あるインターネットの記事では"永遠のテーマ"とまで揶揄されていた。そんな究極の二択に関して思うところがある。「カレー味のウンコ」か「ウンコ味のカレー」以外のワードでこの疑問文と同質の疑問文を量産できないかということである。意外と簡単そうに見えるが中々できないのである。そこで今回はこの究極の二択を考察し、その性質を理解するとともに、同質の疑問文が成り立つかどうかの検証を改めて行いたいと思う。ここで勘違いしないで欲しいのは、この記事がどちらを選択したら徳かどうかを考察する目的ではないということである。そんなことはどうでもいい。

 

2.定義

 考察及び検証に入る前に、この記事において目指す所の「同質の疑問文」とは何かについて予め定めておく。一口に同質と言っても、文章構成のみが同じであればよいとする考え方や、意味合いさえ同じであればよいとする考え方など様々である。したがって、その幅の広さから結論にブレが生じる可能性がある。そのためこの記事において追求する「同質の疑問文」とはなにかを予め定義しその幅を一定の範囲に狭めておく必要がある。定義の結論から言うと、今回は文章構成及び意味合い、その両方において同質であるものを「同質の疑問文」とする。つまり《○○味の△△か△△味の○○どっちがいい?》という文章構成であって、且つ『カレー味のウンコかウンコ味のカレーどっちがいい?』というどちらを選んでもデメリットを迫る意味合いでなくてはならない。因みに最後の『どっちがいい?』は当然"食する"においてである。ケースに飾るのはどっちがいい?ということではない。もう一点、カレーとはご飯付きのものである。それならばカレー"ライス"ではないかと反論する愚か者がいるかもしれないが、一般的に「カレーを食べる」と言って想像するのはカレーのルーだけであろうか?わざわざカレーライスと言わなくてもカレーにご飯が付いてくるのは一般的と言って過言でない。したがって、この記事ではカレーにご飯を付けることとする。本題に戻る。定義について分かりやすいよう例を挙げると、「豚に真珠」と「猫に小判」の関係がそれにあたる。文章構成と意味合い、両方において同質である。私は『カレー味のウンコかウンコ味のカレーどっちがいい』においても、その関係を実現させたいのである。辞書の厚さから察するにその組み合わせはほぼ無限に近い。カレーとウンコにこんな沢山のワードを代入できるとは、なんて贅沢なのだ。こんなにも可能性満ち溢れる検証が今まであっただろうか。

 

3.文章考察

 元の疑問文を徹底的に考察することで、同質の疑問文が成り立つかどうかへのアプローチを行いたいと思う。はじめに『カレー味のウンコかウンコ味のカレーどっちがいい?』この疑問文を『A味のBかB味のAどっちがいい?』と考えるとする。Aに当てはまるものは元の文ではカレーである。つまり、あるものをAとするには以下の条件を満たさなければならない。

【Aの条件】

  • 料理である
  • 食材ではない
  • 食欲をそそる良い匂いである
  • 味が保証されている(美味しい)
  • 空腹を満たすことができる

一方、Bはウンコであり、あるものをBとするには以下の条件を満たさなければならない。

【Bの条件】

  • 食べる行為を前提として作り出されたものではない
  • 空腹を満たすことができる
  • 不味い(実際に食した方によると苦いらしい)
  • 臭いが強烈(臭い)
  • 見た目が食するに適していない(不潔)

そして以上の条件を踏まえた上で、AとBが今回の疑問文の関係になるには以下の条件を満たさなくてはならない。

【AとBの関係の条件】

  • 見た目が似ている
  • 見た目が似ているが、完全に同じではない(カレーとウンコを本気で間違える可能性はかなり低い)

これが最小単位のAとB及びそれらの関係になりうるための条件である。ここまでをまずしっかりと理解して欲しい。単にカレーとウンコの説明だと思ってもらって構わない。そしてここから以上の内容を応用していく。カレーとウンコの次元を超えるのだ。元の疑問文を大まかに捉えると当然『X or Y』である。我々は今そのXとYの半分を捉えたに過ぎないのだ。ここからは元の文における"X"、即ち「カレー味のウンコ」と"Y"「ウンコ味のカレー」になりうるための条件を整理をしていく。

【X(カレー味のウンコ)の条件】

  • 食欲をそそる良い匂いである【A】《嗅覚》
  • 味が保証されている(おいしい)【A】《味覚》
  • 空腹を満たすことができる【B】《質量》
  • 食べる行為を前提として作り出されたものではない【B】《視覚》
  • 見た目が食するに適していない(不潔)【B】《視覚》

【Y(ウンコ味のカレー)の条件】

  • 料理である【A】《視覚》
  • 食材ではない【A】《視覚》
  • 空腹を満たすことができる【A】《質量》
  • 不味い【B】《味覚》
  • 臭いが強烈(臭い)【B】《嗅覚》

以上のようになる。そしてこのことからXとYはAとBの味覚的・嗅覚的条件と視覚的条件をそれぞれ入れ替え融合した形であることが分かる。一応言うと質量的条件も入れ替わっているが、空腹を満たすことができる点はどちらも共通なので、その点において変化は起きない。以上の入れ替わりの結果を分かりやすく言うと、XはAの味と匂いであって、Bの見た目でなくてはならない。対してYはBの味と匂いであって、Aの見た目でなくてはならない。当然だと思う方が多いかもしれないが、ここまで徹底的に条件付けを行わないと、誤った関係を生み出してしまう可能性があることを理解していただきたい。そして、それらの質量は見たそのままの質量である。(例:カレー味のウンコだったらウンコそのものの質量)以上の条件から、XとYの関係となりうるための条件を導くことができる。

【XとYの関係の条件】

  • 見た目が似ている【AとBの関係】
  • 見た目が似ているが、完全に同じではない【AとBの関係】
  • Xが視覚的デメリットを有し、それと同等の味覚的及び嗅覚的デメリットをYが有すること【X】【Y】
  • Xが味覚的及び嗅覚的メリットを有し、それと同等の視覚的メリットをYが有すること【X】【Y】

とにかく、XとYはメリットとデメリットがお互いに均衡し、見た目が似ても似つかぬもの同士であればよい

以上がA、B、AとBの関係、X、Y、XとYの関係の条件である。もちろん同質の疑問文を成り立たせるためにはこの条件を全てクリアしなければならない。ここでどのような過程で条件が満たされていくのかを確認していきたい。まず、Aが満たされるとするとX、Yの半分も同時に満たされる。次にBが満たされるとX、Yのもう半分が満たされる。つまりAB両方満たされるとXYもそれぞれ満たされる。そしてXY両方満たされるとXとYの関係も満たされる可能性が生まれる(メリットデメリットが均衡及び見た目が類似していなければ満たされない)。最後に残るのはAとBの関係であるが、XとYの関係にそっくりそのまま入っているので考慮しない。まとめると以下のようになる。

『A→Xa、Ya

    B→Xb、Yb

   →X(Xa,Xb)、Y(Ya,Yb)

   →XとYの関係(AとBの関係)』 

この条件の過程を全てクリアできれば「同質の疑問文」は成り立つと言えよう。

 

4.検証

 Aは料理全般で幅が広いので、選択肢の少ないB(汚物)から選定していく。

①おしっこ

 ウンコとハッピーセットのおしっこであるが、空腹を満たすことができないので門前払いである(Bの条件)。仮に通ったとしても、Aを緑茶等にしてしまうと本当に似すぎて見分けがつかない(XとYの関係の条件)。それだったら緑茶味のおしっこを飲めばいい話である。

②ゲロ

 まさかのダークホースであった。あっさり条件をクリアしてしまったのである。対するAはシチュー。これまたウンコとカレー同等の似ても似つかぬ関係。そしてXとYの関係におけるメリットデメリットの均衡も難なくクリア。究極の二択界の新スター誕生である。

③泥

 汚物とまでは言えないかもしれないが、臭い泥は確かにある。だが、生憎対するAに当てはまるものがカレーぐらいしかなく、彼はもうウンコに取られている。特にそういう決まりはないが、既出のものに合わせていくのも芸がないので棄却。デメリットとメリットの均衡もあまり取れていない(XとYの関係の条件)。食用の泥(土)も販売されているらしく適切ではないだろう(Bの条件)。ウンコには勝らない。

④人の死体

 なんとも不謹慎だが、一応Bの条件は満たす。しかし、お相手が食材止まりになってしまう(鶏肉、カエル肉など)(Aの条件)。というか人の肉を食べるというのは、視覚的・味覚的デメリットよりも倫理的な問題の方が食欲を失せさせるのではないか?

⑤虫

  普通に美味しいらしいので却下(Bの条件)。

⑥金玉

  普通に美味しいらしいので却下(Bの条件)。

⑦鼻くそ

 相当な量が無いと空腹を満たせないので却下(Bの条件)。あんま食べすぎると病気になる可能性もあるらしい。しかし、食べる為に彼は生まれてきたと思わせるほど、小学生はよく食べる。故にポピュラーな食べ物と言えてしまうのが残念(Bの条件)。もし仮に組ませるとしたらグミが一番良いだろうか(料理ではないので却下)(Aの条件)。

 

 本当に申し訳ないのだが、Bに当てはまる汚物がこれくらいしか思いつかなかった。冒頭で"可能性満ち溢れる検証"などとほざいていたのが懐かしい。自分で条件を作り上げていくうちに、ほとんどの単語は候補から消えていってしまったのである。全く心踊らないではないか。しかも"量産"とまで言い張っていたのは些か反省である。なにはともあれ、量産はできなかったにしろ、新しい同等の疑問文を作ることには成功した。『シチュー味のゲロかゲロ味のシチュー、どっちがいい?』最高の響きではないか。『シチュー味のゲロかゲロ味のシチュー、どっちがいい?』斜体にすると尚一層美しく感じる。『カレー味のウンコかウンコ味のカレー、どっちがいい?』に負けない文の正統性である。これからはゲロシチュー版を使っていこうと思う。また、これは偶然の発見なのだが、なんとこの2つは組み合わせることができる。『ウンコ味のカレーかゲロ味のシチュー』『カレー味のウンコかシチュー味のゲロ』『ウンコ味のカレーかシチュー味のゲロ』『カレー味のウンコかゲロ味のシチュー』これらに関してはどれもメリットデメリットが均衡している。(先2つは、同じ種類のメリットデメリットがぶつかり合っている)これまた面白い話である。まさに究極。もし量産に成功すれば、より多くの組み合わせが生まれるだろう。その可能性の為にも読者の方には、まず汚物探しから頑張っていただきたい。

趣味を失った男

最近、趣味を探しています。今の生活にスロットがあるとしたら、アナ研・バイト・読書・英語・睡眠が占めています。

ひとつひとつ吟味してみました。

 

  • アナ研・・・サークル。大体これで土日の昼から夕方、火木の夜は潰れていきます。陰気臭い人間の集まりなのによくここまで人とふれあう機会を増やしたものです。部内の活動は丁度良いですが、渉外に関しては占めている時間的に少しハードになってきたかなと思います。
  • バイト・・・月80-100時間シフトインしている気がします。結構時間を失っていますが、その分対価は得られているのでまだ納得できます。勉強もなんだかんだ両立?(ギリギリ単位を落とさない程度)できているので学生としての質は保たれているのかなと思います。ただ、生活リズムがずれ込んでしまうのはいつになっても治せず、辛い思いをしています。今後、インターン、就活、教習所も控えているので、バイトを変えようかどうかも悩みの一つです。
  • 読書・・・以前ブログに読書が好きみたいなことを書きましたが、最近はそうでもない気がします。たしかに読んでみると読書特有の面白さがあるのですが、わざわざ家にいる時に読んだりはしません。電車の移動時間を潰すために読んでます。今後は今まで読んだ本をゆっくり再読していこうかなと思ってます。生活におけるウェイトはあまり占めていません。
  • 英語・・・TOEICの勉強です。就活を意識し始めてやり始めました。TOEICで点が取れるから圧倒的有利なんてナメた考えはしていませんが、少しでも就活前の不安を取り除けたらなと思っています。たしかに、勉強をし始めてから人として自信が湧いてきた気がします。しかし、そんな感じで始めた英語学習ですが、この間のTOEICで目標点数を達成してしまいました。素直に嬉しいのですが、もっと先の話になると思っていたのでなんとも言えない虚無感を味わいました。これからどうしたら良いのか悩みます。とりあえずは、目標点数を上げてもう一度取り組んでみたいなと思います。同時に、今まで行ってこなかったスピーキングの練習もできたらなと思います。日中、何もない時は大体の確率でコレをやってます。
  • 睡眠・・・これは欠かせません。僕はロングスリーパーという人間に分類されると思います。大体10時間程度眠らないと頭は冴えませんし、勉強もままなりません。何回か6-7時間睡眠を繰り返した時期(受験期もそう)があったのですが、やはり勉強の効率は下がりました。読書も書いてある内容が中々頭に入ってきません。これはもう仕方ないので、「それなら潔く寝よう!!」と思い僕は眠い時は潔く寝ることにしています。勉強するには良い決め事ですが、予定がある時は曲者です。蛇足ですが、人は睡眠時にその日に起きた出来事や頭に浮かんだ思考を整理していると、この間、本で読みました。やっぱり寝るのに時間を割くのも悪くないんだなと改めて納得しました。眠い時は大体寝ています。

 

以上が今の生活を占めている者たちですが、正直、つまらないです。飽きたとかそう言う問題ではなく、コンテンツがつまらないです。

趣味→読書、英語学習 ってのもなんとなく分かりますが、正直楽しいと思ってやってはないです。読書は本によって楽しいと思える瞬間がありますが、ゲームをやっている時のあの快感、楽しさとはまた違う種類に感じます。英語学習は言うまでもなく趣味の楽しさとは言えません。

一体、僕の趣味はどこにいってしまったのでしょうか。そこで趣味を改めて探すことにしました。

まずは、上でも少し引き合いに出したゲームです。小さい頃、新しいゲームをやって興奮していた頃を想像して、今のゲームのラインナップを見てたのですが、どれも面白そうに感じませんでした。僕が変わってしまったのでしょうか。それともゲームが落ち目を辿っているのでしょうか。

他にも映画観賞や一眼レフ、筋トレなど色々考えました。が、左から金がかかる、外出るのめんどい、身体が痛くなるのでやめました。映画は本当に観たいのだけ観ればいいですし、一眼は旅行に持ってくだけで充分だと思ってますし、筋トレはただただ疲れて悲しい気持ちになります。

もう僕には、趣味、読書英語学習の陰キャの道しか残されていないのでしょうか。

僕も、本能的に古着屋とかインディーズバンドのライブとかに行ってしまうような人間になりたかったです。

広告を非表示にする

渉外活動

最近、放研界隈の渉外活動について違和感を感じます。渉外活動に重きを置く一方で、本来力を入れるべく創作活動が軽視されていると僕は思います。

渉外活動に力を入れることには別に違和感は覚えません。むしろ促進されるべきだと思います。ただ、その割につまらない番組が多く見受けられることに違和を感じているのです。

(ここでいう"つまらない"は「心が惹きつけられない」という意味であって、単純に「笑える」"面白い"とは異なる"面白い"と対義の関係にあるものとします。)

 

僕が思う本来あるべき活動のバランスは、『創作≧渉外』です。渉外活動への力量は、創作活動への力量を決して超えません。もし超えたとしても、後者がすぐに追いつかなければなりません。

そもそも放送研究会の活動は創作を基盤としています。その証拠に番組発表会(以下,番発)があります。創作を無くして番発を行うのは不可能です。

ただ、パクりで行えば創作無くとも番発を行えます。しかし、それは創作を中心とした活動を行う放送研究会自体を否定しているので、反論要素としては不十分です。番発が主な活動である限り、創作は放送研究会の基本的要素であると言えます。

それに対して渉外活動はそうではありません。渉外活動は創作活動同様に基本的要素とは言い難いです。ここを勘違いしている人が多いと思います。

渉外活動はたしかに基本的要素に思えます。何故なら、観客がいないと番発が行えないと思うからです。観客が必要事項になっている以上、それを呼び寄せる渉外活動も必要事項、即ち基本的要素だと考えるのです。

一見妥当な考えに思えますが、この考えは根本的なところが間違っています。そもそも観客は必須ではないです。その証拠に内部での番発(以下,内番)を行なっている団体が多数あります。内番は外部からの観客を受け付けません。それ故に渉外活動を必要としません。そこに残っている遂行すべき基本的要素は、創作のみです。

ここで2つの反論要素が挙げられます。一つは、「内番だけでは放送研究会の活動を全うしていると言えないのではないか」、二つ目は「外番を1回でも行えば渉外活動は必要事項、即ち基本的要素になり得るのではないか」というものです。

まず一つ目ですが、僕は内番だけでも放送研究会の活動を全うしていると言えると思います。先ほど話しましたが、番発には創作が必須です。そして番発が放送研究会の主な活動である限り、創作は基本的要素です。その創作が、いくら内部のものであるとしても、番発を行う必要条件として挙げられ、実際に行うにあたり満たされている以上、放送研究会の基本的要素は満たされたと見做し、内番であっても活動が全うされたと考えるべきだと思います。

二つ目ですが、たしかに外番を行う上で渉外活動は基本的要素に思えます。というか実際にそうです。外番を行う上で会場や開催日時の連絡など必要最低限の渉外活動は不可欠です。

しかし、上記の渉外活動における基本的要素の意味合いと創作におけるそれは訳が違います。創作は言ってしまえば、究極の要素なのです。創作を遂行できなければ、放送研究会の活動を全うしたとは言えないのです。

それに対して、渉外活動は、例えそれを遂行できなくても、放送研究会の活動を全うできてしまいます。その証拠に内番を先ほど挙げました。渉外活動は放送研究会の活動を全うするにおいて、必須では無いのです。

では、渉外活動が遂行できないと全うできないものは何かというと、それは外番です。ここを履き違えてしまっている人が多いと思います。創作活動は放送研究会の活動を全うするのにおいて必須の基本的要素であり、対して渉外活動は外番を全うするのにおいて必須の基本的要素なのです。故に外番を1回でも行えば渉外活動は必要事項、即ち基本的要素になり得ますが、それは外番を行うのにあたってのそれらなのであり、それは創作と同様の放送研究会の活動を全うするのにあたってのそれらではないと言えます。

 

整理すると、以上のことから以下のことが言えます。

 

①創作活動は、放送研究会の活動を全うするにおいて必要事項、即ち基本的要素である。

②渉外活動は、放送研究会の活動を全うするにおいて必要事項ではなく、外向け番組発表会を行う上で必要事項、即ち基本的要素である。

 

そして以上の①②から、

③創作活動への力量を渉外活動への力量が追い越した時、その状態は放送研究会の活動を全うしているとは言えず、外向け番組発表会の必要事項を全うしていると言う方が適切である。

④放送研究会の活動を全うしていると言えないことから、その状態は放送研究会に属する本来の意味を失っているに等しく、存在自体を否定するに等しい。

 

ということが導かれると考えます。

 

以上のことを前提に、渉外活動を重視する一方で創作活動を軽視している風潮に違和感を感じると僕は冒頭で述べました。これは見直すべきだと思います。

年に2〜4程度、1団体につき外番を行なっているのが普通になっているので、渉外活動に力が入るのは当然です。その状況は認めますし、僕もそうであるのが普通だと思っています。だからこそ渉外活動を促進するのは良いと冒頭で述べました。これは放送研究界隈自体が盛り上がり非常に良いと思います。渉外との繋がりに楽しみを覚えた人も多いでしょう。

ただ、僕が言いたいのは創作活動を愚かにしないでほしいということです。渉外活動を行う分、それも向上しなければなりません。そうでないと、放送研究会に属した身にありながら、本来全うすべき活動を全うせずに、放送研究会の存在意義すら否定してしまう羽目になります。これに気づいてない人が多いのが悲しいことです。

渉外活動は楽しいだとか、人の繋がりを否定するなと言いたい人もいるかもしれません。ただそれは見当違いの反論です。僕が言いたいのは、渉外活動を減らせとか、控えろとかそういうことではないのです。もっと創作活動に向き合ってほしいのです。

渉外活動をするだけして、渉外担当だから適当に番組を出す。なんなら出しさえしない。そういうことをする(後者は不作為)ために放送研究会に属しているのではないのです。創作活動、即ち、番組制作や番組に何か携わるために属しているのです。

渉外活動をするなら、それで得たお客さんをできるだけ喜ばせて帰らせる努力も一緒にするべきだと僕は思います。

 

最後まで拙い文章を読んでくれてありがとうございます。

 

 

全部嘘です。

広告を非表示にする

this ブログ

最近、読書に再燃し始めました。

小説、特にハードカバーをとても熱く感じてます。とはいえ、未だ『コンビニ人間』『火花』しか買って読んでません。

本を読み始めたのは大学2年生になってからでした。去年度は100冊を目標にあらゆるジャンルの本を読み進めていたのですが、結果64冊に終わってしまいました。一見64冊は多いように見えますが、月ペースで考えると、5冊/月になるので、別に目指していたわけではないですが、本の虫とまではいきません。冒頭で再燃と言ったのはこの目標が達成できず読書から距離を置いてしまったからです。今思えば読了冊数なんてただ1つの読書の指標であって、そこに大した意味は無く、読書を続けることに意味があったのだと思います。自分で自分の首を絞めてました。バカでした。月末に気になったら数える程度にします。

本に関してですが、当然、読んでいる中でも得手不得手があり、好きなジャンル以外のものにあまり面白味を感じられませんでした。これは読書人生早期にして中々の問題でした。今は冊数は気にしないようにしてますが、当時、100冊突破を視野に入れる観点からも読書のペースが落ちる点は問題でした。ましてや偏りある読書はもはや読書の意味を欠いてしまうのではないかと、根本的に無意味になってしまう可能性すら感じました。実際に偏りがある読書を良しとしない教えの本を何冊か読んだので尚更そう思いました。

文庫小説は新書、自己啓発本、カルチャー本等々に比べると得るものがないように感じられ、当然タイトルによって波はありましたが、大体が読んでいて退屈でした。けれども、教えに従い「あらゆるジャンルを読まないとダメだ!」と自分に思わせ、必死に小説を読みました。新書が長くて200ページ程で大体終わるのに対して、小説は250程度はざらで長いもので300を越えてくるので、読んでいて絶望を感じました。目で厚さを計るのは良いのですが、数字にされてしまうと本当に絶望します。負けずに頑張り、読んだ冊数に対して3割をキープできるように小説を読みました。3割をキープすることになると単純に3回に1回小説でした。本当に辛かったです。

しかし、ある日、『コンビニ人間』を読んで世界が変わりました。初めて本を読みながら声を出して笑いました。人と話してて笑ったり、twitterで不意に笑ってしまう笑いとまた違う感覚でした。上手く言葉にできないのですが、ものすごい共感からつい笑ってしまいました。「あぁこんな奴いるわ」「これ他の人も思うんだ」っていう感じで笑ってしまいました。文庫化されてしまえば同じ文庫小説の棚に並んでしまいますが、文芸として発売されて、デカデカと本屋の目立つところに置いてあるだけありました。当然なのですが表現の仕方が上手でした。読んでなくてもそんなことは分かるのですが、読んでみて初めてその上手さを体感してしまいました。本当に"してしまいました"。VRと同じです。実際、付けたことないけどVRが凄いのを知っている人が、本当にVRを付けてみて"凄い"と感じるのと同じ感覚です。もうゲームをするにはVR以外できないと言わんばかりに、読書をするには文芸じゃないとダメです。しかも、没頭したせいかページ数をあまり気にせず、絶え間ない圧を受けなくて済みました。なんて心臓に優しいのでしょうか。あとハードカバーが群れを成すと何だかオシャレです。

冒頭で言った通り、「未だ『コンビニ人間』と『火花』しか読んでない」のでこんなふうに思ってしまうのかもしれませんが、文芸とても熱いです。もっと読んでいきたいと思いました。

で、このブログは出来るだけ趣味である本の事を書いていこうと思いました。書いていて思いつきました。正直、書く内容はなんだって良いのですが、自分の考えをまとめる練習になればいいなと思ってます。以前、ノートに本の感想をまとめていたのですが、やはり人目がないからか全く緊張感がなく、「面白かった」で大体が終わってしまいました。単純な話、それをブログに移す事で、アクセス数は手足の本数より少ないですが、誰かに見られる可能性があるという最低限の緊張感を保ちながら続けることができます。必ずしもチェックされる訳ではないのが読書感想文と違っていい所ですし、今の自分のニーズにぴったりだと思います。

他にも旅行のことやサークルのことも書いていこうと思うと、何だか胸が弾みます。もしかしたらハードカバーよりブログに熱中しているのかもしれません。

今日は終わります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全部嘘です。

広告を非表示にする